Think of Me


 目前、互いの鼻から鼻の間隔は10センチほど。
 何時も見慣れた瞳から発せられる視線に標本の蝶の如く縫いとめられて十数分ほど。
 男女が同じベッドの上に居るとなれば甘い思いも期待できようが、今はそんな雰囲気など欠片もない。
 ――怒っている。
 表情には一片たりともそんな感情は浮かんでいないが、絶対に怒っている。
 記憶の引き出しを開け閉めなどしなくとも解答は明確に出ている。
 目の前の相手、ツィルベルタはとてつもなく怒っているのだ。
「……怒ってるだろ」
「別に」
 隠そうともしない不貞腐れた声を聞いて俺は頭が痛くなる。
 確かに、不味かった。
 一つ目。独断でUGNのチルドレンの再教育を引き受けた。
 二つ目。受けた仕事を同居人に押し付けた。
 三つ目。そのチルドレン達をこの狭い3LDKに一ヶ月間も下宿させる事になってしまった。
 安易に引き受けるんじゃなかった、と少し後悔した。
 『たまにはコイツも苦労すればいい』なんて言う悪魔の誘惑に、つい乗ってしまったばかりに…。
 こんな、とてつもなく、居心地の悪い思いをしている。
「ご、ごめんよ」
 謝った途端、頬に細い手が伸びてきた。
 俺の頬をむんずと掴んだと思ったら、力の限り肉を引き伸ばそうとしてくる。
「痛い。痛い。地味に痛いっ!ごめん!マジでごめん!抓らないでっ!」
 悲鳴と共に何度も詫びの言葉を言う。
 何回か『ごめん』を繰り返して漸く、彼女は俺の頬の肉を捩るのをやめた。
「元はと言えば、私が我儘言い出したんだから、これぐらいで許してあげる」
「そうだよ。元はと言えばお前が悪いんだよ」
 文句を言うと彼女は綺麗な眉を顰めて、こつんと俺の胸に額を当ててくる。
「同じ家にずっと住んでると換気も必要だと思っただけよ。こんな状況は予想外」
 そう言って彼女は長い睫毛を閉じ、そっと囁くように言った。
「私達の閉ざされた円環に人が入ってくるのは久しぶりね」
 俺はその言葉に沈黙で同意の意を返す。
 俺達は中立と言う言葉を好む。
 中立とは誰の味方もしない事。全てにおいて公平である事。深く関わらない事。深く関わらせない事。
 それは互いが互いの特別であるための暗黙のルール。
 特に示し合わせていたわけじゃないけれど、結果としてはそういう事。
「たまには変化があった方が良いと思ったけど…。換気と共に羽虫が入ってくるのは考えものね」
 毒を含んだ言葉に視線を下げると、再び針のような眼差しが突き刺さる。
「……その様子だと、他の事で怒ってるな……」
 そして思い当たった出来事も、矢張り自分勝手な行動だった。
 これまた同意を得ずに知人を招いて、一夜ばかり泊めたのはつい最近の事だ。
 同じレネゲイトビーイング同士なら気が合うと思ったのだが、どうやらそうでもなかったらしい。
「ぶぶ漬けまで出して持て成したのに完全にスルーされたわ」
「幾ら京都在住だろうが、金髪のねーちゃんが茶漬けを出しても帰れコールだとは思わないだろ」
 俺の言葉に不服そうに唇を尖らせるツィルベルタさん。
 俺としては、客人に先制攻撃を食らわせるコイツの態度こそ、不服そのものなのだが。
「こんなのの何処がいいのかしら」
「こんなのとは失礼な。それに、アイツとはそういう関係じゃない」
 きっぱりと言った俺を探るように凝視する事、十数秒。
「なら、いいけど」
 諦めたような表情をして、溜息と共に言葉を吐き出された。
「じゃ、この話は終わり。私はそろそろ寝るわ」
 そうぶっきらぼうに言いながら、彼女はシーツでも手繰り寄せるように俺を抱き締めてきた。
「こんな不自由な思いをさせるのだから、抱き枕ぐらいにはなりなさいよね」
 触れて届く心音。密着して伝わる体温。
 彼女が本当に言いたい事は、其処に溢れる程詰まっている。
 俺はそれを無言で受け取って、返答の代わりに甘い匂いの金髪の髪を撫ぜた。
 うとうとと眠りに落ちていく彼女を見ながら思考に耽る。
 『××××』とか、無責任な言葉を吐けたら互いにどんなに幸せだろう。
 でも、口にするには重すぎる。俺にとっても、彼女にとっても。
 ――それでも、独りよりはマシなのかな…。
 微睡に身を埋め、眠りに溺れて夢を見る。
 互いの尾を噛みながらくるくる踊る二匹の蛇。
 それは、永い時をふたりぼっちで過ごす、自分達の姿そのままだった。