其の、人物は

自らを、<蜃気楼>だと云った



『Twilight Mirage』



黄昏の光が綺麗だと、誰かが云った。
死ぬ間際の太陽が、世界を其の手に抱くその瞬間。
ほんの刹那の輝きが、美しいと誰かが云った。

また嘗て、誰かは云った。
桜もまた、散り際が美しい、と。

散り逝くものに満たされた世界で、
散り果てたものは蹂躙され、
綺麗だと仰いだものに見向きもせず、
墜ちる迄の刹那よりも短い瞬間の中に、

人は、記憶を埋め、忘れる。


忘れ去られた跡。
其処は<死>と呼ぶに相応しい場所。
世界よりもほんの僅かに早く終末を迎えたその場所で、

聴こえた、低い旋律。

「……?」

其れは、束の間の静寂だった。



ヘッドホンの隙間から聞こえてくるノイズが只鬱陶しくて、
悲鳴のように広がった斜陽の光が只煩くて、
誰も彼も、世界すら、自分の存在を厭というほど主張する。

(………うぜェ…)

無意識に動く肺。通り抜ける酸素すら疎ましく思いながら、
少女は眉を顰め、歩いていた。

擦れ違う男性の靴音、通り越す女子高生の笑い声。
掻き消すために流している気に入りのロックナンバーすら、癇に障る。
視線を上げると、至極身近に在る不死の鳥。
早く燃え尽きて、朽ちてしまえ。幾度となく胸中で紡いだ言を、繰り返す。

黄昏の光が綺麗だと、“誰か”が云った。
宝石と見違えるような輝きの、人間が持つには些か気味が悪い色の、長い長い髪を優雅に揺らして。
<魔女>と呼んでも差し支えのない微笑みで、無感動に無関心に、“彼女”は綺麗だと云った。

『見て、瑞姫。太陽が悲鳴を上げているわ』

斜陽を見ると、少女を思い出すと、“彼女”は云い、そして哂った。
愉しげに、愛おしげに、蔑む様に。

『血を流して倒れる死の間際、誰にも手を差し伸べられずに、ほら』
『喜ばれさえする。まるでわたし達、<化け物>だわ』

「……煩せぇ」

結局、頭蓋に反響し続ける“彼女”の詞が<煩い>のだ。
何時も纏わり付き、絡み付き、足枷のように重石のように、立ち止まらせるから。

そして無意識に立ち止まった、束の間。
ほんの、一瞬だけ。

世界から、音が消えた。


「……?」

思わず、ヘッドホンを外す。

異界に足を踏み入れたような静寂。
ワーディングの、肌がざわつく感覚とも違う、不可思議な静寂。

振り返ると、街並み。
スクリーン越しの雑踏が、日常が、何処か遠い世界の物になっていた。
其の、切り取られた世界の中で、

耳を掠めた、低い音。


彼が背にする、今にも崩れそうな灰の壁。
踏み込んだことも見たことも、聞いたこともない此の場所は、
<廃墟>と呼ぶに相応しい、死の果てだった。

震える空気の、背にする建物の、脆さを引き立たせているのは彼の旋律。
けれども其れはひどく甘美で、

(…………あぁ、それが<死>なのか)

響かない、忘れられた、静寂の浮遊感。
穏やかで、柔らかく、甘い、虚ろな廃頽感。

「……誰?」
「……アンタこそ、何」
「ん。何、だと思ったのかな」
「<化け物>」
「違いない」

否。<天使>だと、錯覚した。
淡々と吐いた何時もの虚言。彼はあっさりと笑い飛ばし、否みもせずに許容する。
何処かで見た覚えのある、真空の笑み。
偽りではない、けれど心が存在しない、虚白の笑み。

「じゃあ、俺が<化け物>で……君は?」
「<不協和音>」
「………へぇ、」

“良いね”

其の一言にだけ、感情が宿った。
<天使>という幻覚が、霧散する。

「マスカレード……そ、っか」

頷いて、彼は口を開いた。
溢れだした音は、虚飾のヴァルス。
舞曲の定番。きっと履き違えた赤い靴で、人形が踊るのがよく似合う。

表情一つ変えることなく、紡がれていくグラン・ギニョール。
段々と、夕闇に呑まれる彼の顔。
慈愛さえ感じさせる彼の表情を見ながら、少女は只、直感する。

楽園も、地獄すらも、内包した、
<天国>とは、廃墟だ と。


「……アンタ、いつも此処にいんの?」

拍手も賛辞も送らずに、少女は問う。死人の瞳に、廃址を映して。

「どうだろう。居ないんじゃないかな」

少女を見上げて、彼は云う。乾涸びた泉に、羽根を落とすような声色で。

「<蜃気楼>だから。……俺は」

最後の詠唱の余韻を、街のノイズが掻き消した。



散り逝くものに満たされた世界で、
散り果てたものは蹂躙され、
綺麗だと、一度仰いだにも関わらず、

「………違う、な」

人は、忘れる。

其れが、“何”であったのかを。



<蜃気楼>は、歌手だった。
知名度は、それなり。知る人ぞ知る、というのが最も正しい評価。
素性は不明。データもない。独り歩きしていく曲が、イメージを作り、伝えていく。

蜃気楼。

其れと出逢って一年ほど経った頃、其れは突然現れ、消えた。
形を持った、<蜃気楼>。
頽廃感も浮遊感も、今一つ欠ける其処に<天国>は無かった。

「やっぱ、ダウトだ」

在る筈のない其れを投げ棄てて、少女は斜陽に眉を顰める。